LOGIN第51話 夏になると、彼女の匂いは少し変わる 六月の終わり頃から、大学の空気は目に見えて変わった。 講義棟の窓は朝から開いているし、学生ホールでは冷たい飲み物ばかり売れるようになった。外を歩けば、まだ真夏ではないのに日差しだけは妙に強く、昼休みに中庭を横切るだけで背中へ汗が浮く。 そして、陽菜の匂いも少し変わった。 そのことに気づいたのは、陸上部の練習が終わった陽菜と駅前で待ち合わせた日のことだった。「ごめん、待った?」「五分くらい」「それなら待ってない扱いでお願いします。今日最後に一本追加されて、着替えるのも遅くなった」 陽菜はそう言いながら、首元を手で扇いだ。ポニーテールの先がまだ少し湿っていて、額には細かな汗が残っている。以前なら、俺と会う前にもっと念入りに拭いてきたはずだが、最近はそこまで神経質ではなくなった。「暑い」「見れば分かる」「彼女が暑がってるんだから、もう少し優しいこと言えない?」「冷たい飲み物買う?」「それ。そういうのでいいの」「じゃあコンビニ」「悠真も何か飲む?」「コーヒー」「この暑さで?」「アイス」「そこは安心した」 二人で駅前のコンビニへ向かう。 歩き始めてすぐ、俺はいつもと違う匂いに気づいた。 汗。 シャンプー。 洗剤。 そこへ、少し甘さのある日焼け止めの匂いが混ざっている。春にはほとんどなかったものだ。 さらに制汗剤も変わっていた。 以前使っていた、かなり強い香りのものではない。もっと軽い。柑橘っぽいが、すぐ消えるタイプ。 俺は。 そこで
第50話 変な好きでも、笑わない場所 交流祭終了のアナウンスが流れたのは、夕方五時を少し過ぎた頃だった。 学生ホールの人波が、ゆっくり外へ流れていく。 朝からずっと人がいたせいか。 急に静かになると。 少し変な感じがした。「終わったね」 陽菜が言う。「うん」「長かった」「かなり」「悠真、途中かなり休んだけど」「そこ言う?」「大事」「もう反省した」「本当に?」「かなり」「次また無理したら?」「怒られる」「誰に」「陽菜」「私だけ?」「神崎先輩と久我にも」「よし」 完全に管理対象になっている。 でも。 今日は。 それでいい気もした。 俺たちは。 少しずつ片付けを始めた。 匿名カード。 模造紙。 風船。 受付用の机。 案内板。 そして。 陽菜の体験文。『高校生の頃、同級生に汗の匂いのことを言われてから、私は自分の匂いが嫌になりました。』 そこから始まる。 一枚の文章。 交流祭前。 出すかどうか。 何度も悩んだ。 文章にする時も。 俺とかなり揉めた。 それでも。 最後は。 陽菜自身が。 出すと決めた。 その文章の横。 小さな感想カード。『自分の嫌いなところを、すぐ好きにならなくてもいいって初めて思いました。少し救われました。』 陽菜は。 まだそれを持っている。「それ」 俺が言う。「何」「持って帰る?」「うん」「展示物として保管しない?」「これは」 陽菜が少し考える。「私が持ってていい?」 神崎先輩へ聞く。「もちろん」「本当に?」「書いた人の個人情報もないし」「はい」「陽菜ちゃん宛てに近い感想だから」「じゃあ」 陽菜は。 カードを。 大事そうに財布へ入れた。「なくさない?」「悠真のカードもまだある」「あれ財布?」「うん」「一緒?」「別のところ」「何で」「折れたら嫌だから」「そんな大事?」「大事」 以前。 俺が書いた。『一緒にいると、自分が少しまともになるところ。』 それも。 まだ持っているらしい。「悠真は?」「何が」「私のカード」「手帳」「まだ?」「ある」「見せて」「今?」「確認」「信用ない?」「あるけど見たい」 俺は。 バッグから手帳を出す。 少し奥。 透明のポケット。『
第49話 俺の嗅覚、イベント会場では最悪でした 人より匂いが分かるという話をすると、たまに羨ましがられることがある。「料理の匂いだけで何入ってるか分かるの?」「好きな人が近くにいたら気づける?」「香水とか当てられる?」 そういう時、俺はだいたい適当に答えてきた。分かる時もあるし、分からない時もある。そもそも嗅覚が少し鋭いだけで、何でも当てられる特殊能力ではない。 それに、良いことばかりでもない。 むしろ人が多い場所では、余計な情報まで拾うせいで面倒になる。 春季交流祭当日の昼過ぎ、俺は改めてそのことを思い知らされていた。「香坂君、入口側どう?」 神崎先輩に呼ばれ、俺は展示板から視線を外した。「今のところ大丈夫です。受付の前だけ少し詰まってるので、記入カードをもう一つ奥へずらしたほうがいいかもしれません」「分かった。じゃあ私動かす」「俺やります」「いや、香坂君は今全体見てて」「でも近いので」「だから私がやるって」 神崎先輩が机を動かし始める。 俺は一歩遅れて手を止めた。「……じゃあお願いします」「珍しく素直」「今それ言います?」「最近ずっと運営責任者みたいな顔してるから」「責任者じゃないです」「顔は完全にそう」 神崎先輩は笑っていたが、俺にはそこへ返す余裕があまりなかった。 人が増えている。 それ自体は嬉しい。 フェチ研の展示は、想像していたより明らかに人を集めていた。 澪先輩の字に惹かれて入ってくる人。匿名カードを見て友達同士で笑う人。陽菜の体験文の前で立ち止まる人。自分の「好き」を書いて、少し恥ずかしそうに箱へ入れる人。 企画としては成功している。 問題は。 成功すればするほど。 匂いも増えることだった。 まず人。 香水。 整髪料。 柔軟剤。 制汗剤。 汗。 ハンドクリーム。 コーヒー。 学生ホールの向こうで売られている焼き菓子。 さらに外から風が入るたび、屋台の油とソースの匂いまで混ざってくる。 一つずつなら。 別に平気だ。 でも。 同時に来る。 しかも。 人が動くたび変わる。 俺の頭は。 勝手にそれを拾う。「香坂君?」 澪先輩の声。 俺は少し遅れて反応した。「はい」「今呼んだ」「すみません」「大丈夫?」「何がですか」「反応遅かった」「ちょ
第48話 白石先輩の字が、いちばん人を集めました 春季交流祭前日。 学生ホールで展示タイトルを試しに掲げた時。 最初に足を止めたのは、フェチ研に興味がある人ではなかった。「字、めっちゃ綺麗」「これ手書き?」「すごくない?」 通りかかった女子学生二人が。 澪先輩の書いた、『好きって、どこから?』 を見上げている。 その下には。『あなたの「好き」は大切。でも、相手の「嫌」も同じくらい大切。』 さらに小さく。『好きは、誰かの境界線を越える許可証ではありません。』 全部。 澪先輩の字だった。「写真撮っていいのかな」「展示始まってないし、やめとく?」「でも字だけでも見たい」 女子学生たちは。 少し離れたところにいる俺たちへは気づいていない。 そのまま。「こういう字書ける人いいな」「分かる。ノート借りたい」 と話しながら去っていった。 俺は。 その様子を見たあと。 澪先輩を見る。「白石先輩」「……何」「かなり固まってますけど」「うん」「大丈夫ですか」「多分」「嫌でした?」「嫌じゃない」「じゃあ」「恥ずかしい」 かなり小さい声。 陽菜が俺の袖を軽く引く。「悠真」「何」「白石先輩、耳赤い」「見れば分かる」「珍しい」「聞こえてる」 澪先輩が言った。「すみません」 陽菜はあまり反省していない顔。「でも」「何?」「嬉しかったですか」 澪先輩は。 すぐに答えなかった。 展示タイトルを見る。「……少し」「少し?」「かなり」 陽菜が笑う。「素直」「でも変な感じ」「どこがですか」「私」 一度止まる。「人の字を見るほうだったから」 その言葉に。 俺も少し納得する。 澪先輩は。 ずっと。 字を見る人だった。 俺のノート。 付箋。 短いメモ。 最後の線。 ひらがなと漢字の違い。 本人が気づいていない癖。 かなり細かく見る。 だから。 逆になった。 今。 自分の字を。 知らない人に見られて。 評価された。「どうですか」 俺が聞く。「何が」「見られる側」 澪先輩は。 少しだけ困った顔をする。「落ち着かない」「嫌?」「嫌じゃない」「でも」「もっと勝手に見てほしくないって思うかと思った」「……」 陽菜も。 少し表情を
第47話 彼氏と一緒に文化祭準備すると、普通に喧嘩する 恋人同士だから、一緒に何かをやれば息が合う。 そんなのは、多分かなり都合のいい思い込みだった。「だから、入口に募集カード置いたほうがいいって」「俺は反対」「何で」「入ってきた人が最初から書くとは限らないだろ。まず展示見てもらって、自分にもこういう好きあるかもって思ってから書くほうが自然」「でも最後に書く場所あったら、混むじゃん」「だから出口手前に机二つ置く」「教室狭くなる」「入口に置いても狭くなる」「入口ならまだ流せる」「立ち止まられたら詰まる」「そんな大混雑する前提で考えなくてもよくない?」「混んでから考えるほうが遅い」「悠真、そういうところ!」 交流祭三日前。 フェチ研の部室。 床には教室の簡単な見取り図が広げられ、その上へ付箋や小さな紙が何枚も置かれている。 入口。 受付。 展示板。 匿名カード。 陽菜の体験文。 自由記入スペース。 久我が出す予定の焼き菓子は、食品提供の申請が間に合わないため試食ではなく「食べる表情についての写真なし展示」に変更された。 神崎先輩が最初に言った。『今日は全部決めます』 その宣言から、まだ二十分。 俺と陽菜は。 すでにかなり揉めていた。「どういうところ」「全部先に悪い場合考えるところ」「悪い場合考えないと当日困るだろ」「分かるけど」「じゃあ」「でも、まだ来る人数も分かんないじゃん」「分からないから余裕持たせる」「その余裕のために展示小さくするの?」「安全なほうがいい」「面白くなくなったら意味ない」「面白さの話と導線は別」「別じゃないよ」「別だろ」「別じゃない」「……」「……」 向かい。 神崎先輩が。 紙コップのコーヒーを飲みながら俺たちを見ていた。 澪先輩はペンを持ったまま黙っている。 久我はなぜか今日も来ている。「神崎先輩」 俺が言う。「何?」「何か言ってください」「どっちも分かる」「一番困るやつ」 陽菜も言う。「玲奈先輩、逃げてません?」「逃げてないよ。本当に両方分かるから」「じゃあ決めてください」「会長権限?」「こういう時に使ってください」「嫌」「何で」「二人が何で揉めてるか、まだ見たい」「楽しんでる!」 陽菜が言った。「少しだけ
第46話 匿名なのに、悠真だってバレるんだけど 予想どおり。 俺と陽菜は、開始十分で揉めた。「悠真、それ私の文章じゃない」「内容は同じだろ」「同じでも言い方が違う!」「じゃあどこが」「全部ちょっと悠真!」 フェチ研の部室。 机の上には、昨日陽菜が書いた原稿と。 俺が短く整えた原稿。 二枚。 並べて置いてある。 陽菜の原文。『高校生の頃、同級生に汗の匂いのことを言われてから、私はずっと自分の匂いが嫌でした。運動部なので汗をかかないわけにはいかないのに、練習が終わると走ったことより匂いのほうが気になって、制汗剤やボディシートを何度も使っていました。大学に入ってから、私の匂いを嫌じゃないと言う人に会いました。その人は、私が嫌っていた匂いを好きだとも言いました。でも、それだけで急に平気になったわけではありません。今でも気になる日はあるし、制汗剤を使いすぎる日もあります。それでも、前ほど自分の匂いを嫌いではなくなりました。もし、自分の嫌いなところを誰かに笑われて、ずっと気にしている人がいたら、すぐに好きにならなくてもいいと思います。私はまだ好きではありません。でも、前ほど嫌いではありません。それだけでも、少し楽になれました。』 長い。 でも。 ちゃんと陽菜だった。 だから俺は。 内容を変えないように。 かなり気をつけたつもりだった。 俺の修正版。『高校時代、汗の匂いを指摘されたことをきっかけに、自分の体臭を強く気にするようになりました。運動後には制汗用品を何度も使用し、人に近づくことにも不安がありました。大学入学後、自分が嫌っていた匂いを「嫌ではない」「好きだ」と言ってくれる人と出会い、少しずつ考え方が変わりました。ただし、現在も不安になる日はあります。完全に克服したわけではありません。それでも、以前ほど自分の匂いを嫌ってはいません。自分の嫌いな部分を誰かに笑われた経験がある人へ。無理に好きになる必要はないと思います。以前より少し嫌いではなくなるだけでも、気持ちは軽くなることがあります。』「……どこが駄目?」 俺は聞いた。 自分では。 かなり無難にまとめたと思っている。 陽菜は。 俺の原稿を指で何度か叩いた。「まず」「うん」「『高校時代』」「そこ?」「私そんな言い方しない」「展示文だろ」「だからって急に資